2015年 8月 の投稿一覧

関西で有数のソープ街の福原で修業をし、雄琴で大きく稼ぐ

遊郭から始まった風俗街“福原”の歴史

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出典:http://www.toprank-osaka.com/

福原は、兵庫県神戸市兵庫区にある町名です。明治元年(1868年)、政府からの許可を得て遊郭が開業します。その2年後の明治3年(1870年)、大阪と神戸とを結ぶ鉄道敷設が計画され、神戸駅の用地として福原遊郭が含まれていたため、現在の場所に移転しました。

この福原遊郭は、明治5年(1872年)の芸娼妓解放令によって、廃業に追い込まれますが、“貸座敷”としての営業が認められ、営業を続けていました。明治6年(1873年)になると、兵庫県は、私娼を一掃するために、神戸の貸座敷の営業制限を撤廃、自由化します。これによって貸座敷が分散拡大し、福原の貸座敷は、大幅に減少しました。

しかし、その後、県は、分散した再び娼婦たちを福原に集めるよう政策転換します。こうして、明治30年(1897年)には、106軒もの貸席を数えるまでになり、周辺には飲食店などが建ち並ぶ一大歓楽街へと変貌を遂げたのです。その後、火事や戦火で甚大な被害を受けますが、そのたびごとに復興し、活況を取り戻していました。

昭和33年(1958年)、売春防止法が施行されると、福原の遊郭は、廃業を余儀なくされます。それに変わってトルコ風呂が開業します。この名称は、後に国際問題となり、ソープランドに名称が改められました。こうしてソープランド街となった福原には、ピンクサロンなどが密集し、関西でも指折りの風俗街になったのです。

福原の独特は風俗サービス“浮世風呂”

福原には、昭和30年から40年代にかけて、“浮世風呂”と呼ばれる風俗店がありました。それらは、畳敷きにこじんまりとした風呂が併設されたもので、現在のソープランドにあるベッドやマットはありません。風呂に入り、バスタオルの上でいたすというものであったそうです。トルコ風呂は中東が由来ですが、浮世風呂は、純和風のソープランドということでしょうか。浮世風呂とは、江戸時代の銭湯を指すそうです。この福原独自の風俗店は、ソープランドに淘汰され、また、無届であったため摘発され、廃業しています。

福原ソープは大衆店が多く、ソープ嬢が若い

なお、福原のソープランドの特徴としては、大衆店が多いことと、ソープ嬢の年齢が比較的若いことが挙げられます。多くが20代の女性がほとんどで、30代の女性は、少ないそうです。若いころは、大衆店の多い福原で技術を学び、経験を積み、30代以降になったら、雄琴を始めとする周辺の風俗街でより多くの収入を得る風俗嬢がいるそうです。それが、どこまで本当かはわかりませんが、吉原でも、30代40代近いベテランのソープ嬢が、高級店で働いている事実がありますので、あながち嘘ではないのでしょう。

西船橋は、中山競馬場から始まった風俗街、そして人妻ヘルス発祥の地

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アクセス良好な西船橋は、千葉で最も利用客の多い駅

西船橋駅は、JR総武線・武蔵野線・京葉線が、地下鉄東西線、京葉高速鉄道が乗り入れており、都心や船橋市を始めとする近隣エリアへのアクセスが非常に良いと言えるでしょう。そのため、西船橋駅の利用客数は千葉県で最も多いのです。西船橋は、いわばベッドタウンとなっています。

西船橋の風俗街としての一面とその背景

しかし、西船橋には、歓楽街、風俗街という一面もあります。それは、駅の北口周辺です。今でこそ、武蔵野線が開業し、中山競馬場の最寄駅と言えば、船橋法典駅ですが、それまでは、西船橋駅が最寄駅だったのです。そうした背景があり、西船橋駅周辺には、競馬ファンを見越した飲食店や風俗店が多く集まるようになったのです。

なお、多くの風俗街は、古くから遊郭、赤線、青線であった歴史があり、なるべくしてなったという経緯がありますが、そんな中で西船橋には、そうした背景がありません。現在の西船橋が、風俗街の一面を併せ持つようになった要因は、この中山競馬場の存在が大きいのです。

西船橋は、何故、人妻ヘルスの発祥の地なのか

なお、西船橋の風俗と言えば、関東における人妻ヘルスの発祥の地とされています。これには、都心へのアクセスの良さが寄与しているようです。ファッションヘルスに限らず、風俗の仕事をしている女性の多くが、知人、友人、親戚、親兄弟などにバレることを最も嫌います。自らの生活拠点としているエリア近くの風俗店であえて働くという方は、少数派でしょう。また、何かと便利な東京に住んでいる知人が、周辺他県に移動するというのは、よほどの理由がないとありません。そのため、都心に住む人妻、あるいは人妻と思われる年齢の女性が、西船橋に移動し、ファッションヘルス店に勤務するようになったようなのです。実際、西船橋には、人妻系と言われる風俗店が多数あります。今日では、人妻系ファッションヘルスよりもデリヘルが圧倒的に多いようですが、人妻というキーワードは、西船橋の風俗を象徴する存在なのです。

同じ人妻系なら、都心よりも西船橋は稼げる!?

また、西船橋の人妻風俗が有名になった理由として、そのクオリティと相場の安さが挙げられます。前述のとおり、都内から流れてくる女性が多いため、東京のセンスを持ち合わせた女性が多いということ、しかし、千葉のベッドタウンという場所柄、比較的サービス料金が安価であることから、多くの男性客からリーズナブルであるという認識をもつようになっているのです。

以上のように、もし都内の風俗店で思うように稼げないと思ったら、東京にこだわらず、西船橋に視点を広げてみるのもいいかもしれません。

すすきのの繁華街、歓楽街としての歴史と治安事情

歓楽街すすきのの歴史

北海道の歓楽街と言えば、すすきのという地名が真っ先に挙げられることでしょう。実際、新宿の歌舞伎町、福岡の中洲と並んで日本3大歓楽街と呼ばれるほどです。

すすきのという歓楽街の始まりは、北海道の開拓時代から始まります。1871年、現在の南4、5条、西3、4丁目のエリアを遊郭として指定しました。この一帯を薄野遊郭と名付け、周辺にあった売春宿が、移転させられました。遊郭や売春街の形成するにいたった思惑は、北海道を開拓する上で必要な労働力を確保するため、つなぎとめておくためとされます。

しかし、数年後には、芸娼妓解放令が発布されます。これにより売春宿が一掃されたかというと、貸座敷と呼称を変えるなどして、実質的には依然と変わらない業態でした。そして、薄野遊郭の周辺は、歓楽街として発展していくことになったのですが、小学校を始めとする教育施設があるため、薄野遊郭を移転しようという計画が持ち上がりました。

なかなか一掃されない、すすきのの売春宿

こうして1920年に薄野遊郭は、現在の白石区菊水地区に移転し、すすきの地から売春宿が一掃されました。そして、その跡地には、料亭やカフェーが入居してきて、繁栄していきました。戦時中は、そうした活気が失われますが、戦後は再び活況を呈し、表向き飲食店を経営し、実は裏で売春をあっせんするという、政府非公認の青線地帯になっていきました。これも1958年の売春防止法の制定によって、売春行為の一掃になるかと思われましたが、飲食店が露天商に代わり、客引きを行っていました。結局、すすきのから売春行為がなくなったのは、1964年の露天商の強制撤去です。

札幌オリンピックの存在で商業施設、飲食店、そして風俗店が多数出店

その後の1960年代後半になると、札幌オリンピックの開催予定に札幌は好景気に沸くことになります。すすきのは、道路拡張や地下鉄の整備、百貨店の開店など商業地区へと大きく変貌していきました。また、クラブやキャバレー、ディスコといった施設も数多く開店しました。80年代に入ると、出張客を受け入れるためのビジネスホテルが相次いで立てられ、それに合わせて、飲食店、風俗店が開業していきました。こうして北の一大繁華街、歓楽街へと変わっていったのです。しかし、近年の札幌不況は深刻で、飲食店の数は減少傾向にあるそうです。

歓楽街でありながら、すすきのは夜通し歩ける安全な街

すすきの風俗の特徴を一言で表すのは難しいですが、街の治安が良いので、若い女性ばかりで夜通し歩いても、危険な目に遭うことはほとんどありません。遊ぶ側もこの地で働く側にも安心できるのではないのでしょうか。

横浜・曙町の風俗街としての始まりとヘルス街に至るまで

曙町は、神奈川県横浜市中区にある町名です。京急電鉄の黄金町駅と横浜市営地下鉄の伊勢崎長者町駅との間に位置します。どちらの駅も周辺は風俗街として良く知られた存在ですが、中でも曙町は、ほかの地域では類を見ないほどの店舗数を誇るファッションヘルス街になっています。その数は、実に80店舗以上とも言われ、その密集度も合わせて、関東最大と言われています。横浜のヘルス店ということで、通称“ハマヘル”と呼ばれます。また、曙町の町内には、ラブホテル街があり、ホテヘルの事務所、待機所が多数あり、一大風俗街を形成しています。

これら風俗店は、街の中央を貫く国道16号線(鎌倉街道)に併走する裏通りに建ち並び、“親不孝通り”とも呼ばれています。その由来は、放蕩の限りを尽くし、親の死に目にも会えないほどの人がいたためだそうです。なお、この名前は、ヘルス街ができる以前、私娼たちとの買春を指してのことのようです。

曙町の風俗街は、カフェー、赤線から始まった

こんな風俗街“曙町”ですが、その歴史は、戦前までさかのぼります。当時は、周辺にある遊郭の影響を受け、飲食店や女給がホステスのように立ち振る舞う特殊飲食店“カフェー”が建ち並んでいました。カフェーは今で言うバー、クラブのようなものです。この女給たちは、基本的に無給で、お客からのチップを収入源にしていたそうです。戦後は、昭和26年の娼妓取締規則が廃止を受けて、行き場を失った私娼が街にあふれ、赤線地帯(半ば国公認で売春が行われていた地域の通称)となりました。後の昭和33年、売春防止法の制定により、赤線が廃止されますが、当時は、性風俗店が建ち並ぶ風俗街、ファッションヘルス街ではなかったわけです。

風営法の規制対象地域外となったことで曙町ヘルス街が誕生

それが、ある出来事をきっかけに周辺のファッションヘルス店、風俗店が押し寄せることとなりました。その出来事とは、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下、風営法)です。同法では、“住宅地や学校、病院から200メートル以内”の営業を禁止しています。しかし、曙町には、当時あった病院の存在により、風俗店の進出ができずにいました。それが、1992年、規制対象となっていた当該病院が営業を停止したため、風営法の規制対象地域から外れることになったのです。それに目を付けた、周辺の風俗店や地方からの風俗店が、翌年の1993年に、大挙してファッションヘルス店を開業したことにより、今日の関東最大と言われるファッションヘルス街を築き上げることになったのです。