“泡踊り”で知られる川崎・堀之内の歴史は、ソープランドの歴史そのもの

ソープを含め風俗業界はこれからどうなっていくのか?➾【東京から風俗が消える日】

川崎・堀之内は、吉原に次ぐソープランド街

川崎市の堀之内と言えば規模としては、吉原に及びませんが、それに次ぐ全国屈指のソープランド街です。

堀之内も吉原と同じように、最寄駅の川崎駅からソープランド街までは、少々距離があります。吉原は、いくつもの駅が、最寄駅となりますが、堀之内は、近くの川崎駅に、JR京浜東北線、東海道本線、南武線、京急本線、大師線が乗り入れており、多方面からの集客があり、また、ソープ嬢にとっては、人目を避けて出勤できるため、都合のいい立地と言えるでしょう。

川崎は、宿場町から青線を経て、ソープランド街へ

さて、ソープランド街“堀之内”は、多くの歓楽街、風俗街がそうであるように、江戸時代の東海道、宿場町からその歴史を始めました。人の往来が激しい宿場町ですから、旅館や茶屋ができ、遊郭が生まれます。近代になると遊郭は姿を消しますが、みなさんご存じの国立競馬場の建設によって、また、工業誘致によって多くの労働者が、川崎に流入し、歓楽街を形成していきました。こうなると人の性で、非合法の売春街、青線が拡大していきましたが、昭和33年の売春防止法によって、そのすべてが廃業してしまいます。このあたりは、風俗街の歴史で、よくある話です。

泡踊り発祥の地である川崎・堀之内は、ソープランドの歴史

川崎が、ほかの風俗街と大きく異なる点は、その後の風俗サービスにおいて、全国に知られるようなムーブメントを起こしたことです。つまり、ソープランドの前身“トルコ風呂”です。一号店ができると、瞬く間に、“川崎・堀之内=トルコ街”として定着しました。その名称変更については、トルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリと後に環境大臣、防衛大臣を務めた小池百合子が、尽力したことで知られています。その後、トルコ風呂は、ソープランドに改称されるわけですが、堀之内ソープの名をさらに大きくしたのは、その性技でしょう。阿波踊りならぬ、“泡踊り”というシャレの聞いたサービスです。泡踊りは、川崎・堀之内が発祥の地と言われ、膨らませたエアマットの上を泡まみれのソープ嬢が、全身を使って男性客の身体を洗うというものです。今日では、肌の負担を軽減するためにソープ(石鹸)からローションに代わりましたが、川崎・堀之内の歴史は、そのままソープランドと言っても過言ではないでしょう。

川崎のソープランド店の数は、60ほどで、高級から中級、格安までの料金設定の店をそろっています。容姿やテクニックに合わせたお店選び、仕事選びができます。

幾度と焼失して復活してきた吉原は、ソープランドと共に生きる街

広大な土地に広がる日本最大のソープランド街“吉原”

吉原と言えば、ソープランド街として日本で最も知られた風俗街です。吉原というのは通称で、地名としては存在しません。地理的には、台東区千束4丁目、および3丁目の一部にあたり、面積は、東京ドーム2個分に相当する広大な土地に広がっています。最寄駅は、三ノ輪駅か南千住駅、あるいは浅草駅、鶯谷駅となりますが、吉原までは、徒歩で15分以上かかるので、客の多くは、駅からソープ店が手配する送迎車やタクシーで移動します。

吉原は、遊郭から赤線地帯、そしてトルコ街、ソープ街へ

多くの風俗街でそうであるように、吉原もまた、かつての遊郭から戦後にかけて開発され、今日の風俗街を形成しています。

吉原には、かつて江戸幕府によって公認された遊郭がありました。当時は、現在の日本橋人形町あたりでしたが、大名たちの屋敷が吉原に隣接するようになると、幕府から移転を命じられました。1657年(明暦3年)に移転した吉原は、“周辺の火事・祭への対応を免除”されていたことから、延宝4年から慶応2年の191年の間に22回もの火事が起きています。その多くが全焼するほどの大火でしたが、そのたびに吉原遊郭は、復興してきました。

しかし、明治時代に入ると、吉原遊郭は、縮小を余儀なくされました。それは、政界、財界の社交の場が、東京の中心に近い芸者街に移っていったからです。しかし、1872年(明治5年)、芸娼妓解放令が出されれても、吉原では、江戸時代同様の人身売買が行われていました。

その後、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、公娼制度が廃止され、吉原は赤線となりました。1958年(昭和35年)の売春防止法の施行により赤線が廃止されると、それまでの店は、連れ込み旅館やソープランドの前身“トルコ風呂”へと転業していきました。

このトルコ風呂が全盛を迎えると、“吉原=トルコ風呂”というイメージが定着していきました。その名称を巡っては、トルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリが抗議し、後に政治家となった小池百合子の協力により、ソープランドに名称変更されました。

バブル期になると、吉原では、10万円以上の高級ソープランド店が多数誕生し、最盛期のソープランド店の数は、250店舗もあったそうです。しかし、バブル崩壊後、高級店が中級店に鞍替え、または閉店するなど、日本を代表する風俗街“吉原”であっても大きな影響を受けました。さらに平成不況下でソープ店の数は減り続け、今では140店舗ほどになっています。

ソープ嬢のための婦人科病院。情報喫茶は、18禁の風俗有料案内所

そんな吉原を歩くと、婦人科の看板をよく目にします。ソープランド街ということで、そこで働くソープ嬢たちは、性病のリスクがとびきり高いためでしょう。

また、“情報喫茶”と呼ばれる喫茶店も目に留まります。これは、かつて江戸時代の吉原遊郭の“手引茶屋”の仕組みをまねたもので、位の高い遊女を呼び出すための仲介所のようなものです。もっとも現在の手引茶屋は、高級ソープ嬢だけでなく、中級、大衆など、お客のリクエストに合わせてソープ嬢たちの写真と店を紹介し、案内した店から仲介手数料を受け取るという商売をしています。いわゆる風俗無料案内所のようですが、喫茶店なのでドリンク代がかかります。なお、店内は、アダルトな情報を扱いますので、18歳未満お断りです。無料案内所は、日本各地の風俗街にありますが、こうした情報喫茶は、ここ吉原だけのようです。

ラブホ街“円山町”を有する渋谷風俗求人の傾向

渋谷の風俗遊びは、ラブホテルの確保から

人が集まるところに風俗あり。若者の街、流行の発信地など、さまざまな呼称をもつ“渋谷”もまた例外ではありません。

渋谷の風俗街と言えば、大規模再開発の真っただ中の渋谷駅周辺ではなく、ハチ公口から目黒に向かう道玄坂方面にあります。道玄坂を上っていくと、109を始めとする東急系列の店舗があり、飲食店、雑居ビルが建ち並んでいます。さらに文化村通りへとつながる道玄坂小路には、ファッションヘルスが数店あるだけですが、辺りの雑居ビルには、デリヘル、ホテヘル店の事務所、待機所が数十か所もあります。

周辺の円山町には、ラブホテル密集地があります。その数は、100軒ほどですが、風俗遊びに限らず、利用者が非常に多いため、平日夜間、土日祝日ともなれば、プレイルームの確保が難しい場合があります。このため、お客がいるのに派遣先のラブホテルが定まらない、接客時間が迫っているのにホテルが見つからないといった事態が起こってしまうのです。

このように道玄坂、円山町界隈は、デリヘルの待機所とラブホテルが近接しており、利便性が高いように思えて、実はそうでないのです。風俗の利用に際しては、確実にホテルとお目当てのデリヘル嬢のスケジュールを合わせる必要があり、人の多い街ならではの悩みの種と言えるでしょう。

渋谷ラブホテル街の円山町の歴史

このラブホテル街は、道玄坂と神泉谷の間、円山町に位置しますが、この辺りは、江戸時代から宿場町、明治時代から花街として栄えていました。大正時代に置屋の数は、130軒を超え、芸者の数は、400人以上というから、かなりの規模と言えるでしょう。この円山町には、かつて三島由紀夫が居を構え、今も財界、政界の名だたる大物たちが住む高級住宅街“松濤”が接しています。松濤は、かねてより企業の重役や資産家たちが所有していたため、近くに料亭、置屋があるのは、会合や接待を行う上で都合がよかったのでしょう。

しかし、売春防止法が施行され、花街文化が廃れていきます。昭和のバブル期には、地上げの嵐が吹き荒れ、多くの料亭が廃業、若者文化の象徴であるクラブが進出するなど、時代の流れと共に変革を余儀なくされました。そして、近年、ラブホテルの建設が相次いだようです。これは、土地所有者の生き残りをかけたもので、松濤との関わりがあって生まれたものではありません。そのため、高級住宅街とラブホテル街が隣り合う、何ともミスマッチなロケーションとなっているのです。

渋谷と言えば、素人・学園系のデリヘル。高級店でさらなる高収入も!?

さあ、渋谷風俗の特徴とはどんなものでしょう? 若者中心の街らしく、人妻系は少数派で、素人系、ギャル系などコンパニオンが若いお店が多いことが挙げられます。職種としては、派遣型のオナクラ、学園系のイメージプレイを提供するデリヘル、ホテヘルが中心です。多くの若者が集まる渋谷では、一般な風俗店であっても女の子のレベルはやや高め。また、モデルや芸能プロダクションに在籍するタレント、AV女優といったより質の高い女性を集めた高級デリヘルの存在が、他のエリアよりも大きいのが特徴です。高級デリヘル店では、一般店の報酬の2から3倍、あるいは、それ以上を目指せる求人があります。容姿に自身のある方は、より多い収入が望める渋谷を目指してみてはいかがでしょうか。

土浦市桜町はDQNな店名が並ぶ風俗街。ソープは年中ピンク色に満開

茨城県には、北関東随一とされる風俗密集地帯があります。それは、土浦市桜町です。名前からしてピンクなのですが、ビジネスホテルもあれば旅館、マンション、病院のほか、大手企業の支店もあります。それもそのはず、土浦は、水戸に続く茨城県第2の都市です。しかし、桜町2丁目には、ソープランド街が広がっているのです。

土浦市桜町、そこはDQNなネーミングの風俗街

メインストリートの名前は、きらきらしたネオン街ということで、“きらら通り”。土地柄だろうか、DQNなネーミングです。入り口付近は、飲食店や居酒屋が並んでいますが、2丁目に入ると様子が一変します。

張りぼてでこさえた派手な店構えのキャバクラ店などが、目に入っていきます。さらに進むと、女性の写真をデーンと掲げたイメクラ店、ファッションヘルス店、ソープランド店が続きます。テレビ番組のパロディーのような店名、やっちゃった感満載のお下品、お下劣、DQNな店名の看板がそこかしこと掲げられています。

他県同様に茨城県でも迷惑防止条例が改正され、客引きが禁止されているので、こうした看板で気を引かねばならないのかもしれません。もうこの辺りは、昼間でも絶対子連れでは行けませんね。その数なんと50軒以上だそうです。

明治から続く花街“桜町”

そんな土浦市桜町2丁目ですが、その始まりは、明治時代の花街からだそうです。戦後は、赤線地帯からソープ街へと移行したという、典型的な風俗街形成の経緯をたどっています。近くを流れる桜川の土手には、春になると桜が咲き誇り、土浦市の名所となっていますが、その向こうには、大正時代に湿地帯を造成し、料亭、料理やカフェーがありました。当時を偲ぶ建物が、今もなお残っています。

土浦市桜町は、川崎に次ぐ関東2位のソープランド街

土浦市桜町の風俗のお仕事といえば、川崎市堀之内に次いで関東で2番目の規模を誇るソープランドでしょうか。総額2万円以下の大衆店が多いようです。しかし、首都圏の大手ソープランドグループのお店も多数出店しており、レベルの高いコンパニオンがいます。なお、ゴム着用が基本であり、性病検査を実施しているお店が多いので衛生面は、よいほうと言えるでしょう。

また、他県にはない特徴として、定休日があることが挙げられます。風俗と言えば、今やデリヘルが主流で、24時間365日というイメージがありますが、茨城ソープは、第三水曜日、あるいは木曜日が、定休日なのです。このほか、ネットでの顔出し率が高い印象を受けます。もっともお店によっては、パネマジこと別人加工の写真を掲載することができますし、顔出しは、ソープ嬢自身が決めればいいことです。

韓デリのメッカ“鶯谷”で苦戦を強いられる日本人デリヘル

都心で珍しく大規模開発のない鶯谷

風俗に詳しい人が、鶯谷と聞いて答えるのは、韓国デリヘル、アジアン風俗のメッカであるということでしょう。

鶯谷は、東京都台東区の地名であり、鶯谷駅を中心とした地域を指します。なお、行政上の地名としては、鶯谷は存在しません。地名の由来は、江戸時代に京都から寛永寺に赴任してきた住職、公弁が、「江戸の鶯はなまっている」と言い、京都から鶯を運ばせて、この地に放ったためとされています。

鶯谷一帯は、江戸時代に寛永寺の領内であたため、多数の寺院が残り、大規模な住宅街、商業都市として開発されることがありませんでした。そのため現在も東京23区にありながら、高層ビル、高層マンションが、比較的少ないのです。

鶯谷ってラブホはあるけど風俗店って見当たらない! ほんと風俗街?

鶯谷駅周辺にラブホテルがあるため、風俗街のイメージがありますが、実は、看板を掲げた風俗店そのものはありません。しかし、無店舗型風俗店、つまりデリヘル、ホテヘルが多数あり、周辺の雑居ビルには、そうした事務所や待機所があります。

かつての鶯谷と言えば、ソープランド街“吉原”に行くための最寄駅でした。今もその役割は変わっていませんが、風営法の改正によってデリヘルが営業できるようになると、駅周辺にラブホテルというロケーションとも相まって、デリヘル街としての印象を強くしていったのです。

それに輪をかけて鶯谷を有名にしているのが、韓デリこと、韓国デリヘルです。中には、デリヘルとは名ばかりの、本番ありの売春クラブも存在するそうです。韓デリの多くは、80分2万円、しかも本番ありならリーズナブルと言えるでしょう。さらに、整形によって顔、スタイルが粒ぞろいとくれば、人気があるのは当然!?

アジアン風俗に圧され、苦戦を強いられる日本勢

鶯谷では、韓国デリヘルに加え、中国やタイ、フィリピンなどのアジアンエステも加わり、日本でありながら、非常に国際色豊かな風俗街となっています。むしろ、日本人がいる風俗店の方が珍しいくらいではないでしょうか。外国勢の濃厚サービスを前に、巣鴨で風俗の仕事をする日本人女性たちが、苦戦を強いられるのは言うまでもありません。

そんな中、韓デリを始め、違法経営店の摘発が相次いでいます。「やっぱり本番行為がバレタか」と思いきや、多くが外国人の不法就労が理由のようです。売春防止法違反で摘発するには、立件が難しいからなのでしょう。2020年の東京オリンピックを前に、ここ鶯谷に大規模な浄化作戦が行われるのか、はたまた日本の風俗店が盛り上げ、生き残るのか、それは誰もにわかりません。

大阪にソープランドはありませんが、飛田新地なら今もあります

花博と関西空港によって、大阪からソープが一掃された

1990年の大阪『国際花と緑の博覧会』の開催と関西空港の開港を理由に、条例を設けるなどして、大規模な浄化作戦が始まりました。その結果、大阪の60数軒あったソープランド店は、次々と摘発され、中にはファッションヘルス店に転業した店舗もあったようですが、全店廃業に追い込まれたのです。そのため、ソープランドを利用しようとすると、関西では滋賀県の雄琴か兵庫県の福原まで足を運ぶしかありません。

そして、“ちょんの間”飛田新地が残った

大阪には、ソープランドがなくても、飛田新地(とびたしんち)があります。飛田新地とは、街としての名前はなく通称です。地理的場所は、大阪市西成区山王3丁目一帯です。ここは、料亭街で実際に本物の料亭も存在するのですが、多くが料亭の看板を掲げ、実は“ちょんの間”なのです。

ちょんの間とは、“ちょっとの短い間に行為をする”ことを語源とする風俗店、その地区を表わします。また、“行為”とは、本番行為のことであり、買春ができるのです。しかし、料亭内で客と仲居とが恋におち、自由恋愛を行うという建前のもと、売春防止法を逃れ、営業を続けています。

飛田遊郭の歴史

飛田新地の歴史について、もう少し触れてみましょう。ここには、かつて遊郭がありました。飛田遊郭は、1916年(大正5年)に築かれ、2年後には100軒を数えるまでになっていたそうです。さらに、昭和初期にその数は、倍の200軒を超え、日本最大級の遊廓と言われました。その後、戦火を逃れ、赤線となりましたが、1958年の売春防止法施行により、飛田遊郭の多くの店が、料亭に転業、『飛田料理組合』を組織します。しかし、これは前述のとおり、同法を逃れるための表向きであり、建前です。それが、ソープランドのない大阪で今もなお続いているのです。

なお、飛田新地の大正中期から残る建造物や街並みは、歴史的価値が高く、中には国の登録有形文化財になったものもあります。もっとも“ちょんの間”であるため、気軽に散歩したり、写真を撮るような場所ではありませんが。

橋下徹と飛田新地の関係

“ちょんの間”飛田新地には、意外な有名人との結びつきがあります。それは、大阪都構想を大阪市民に受け入れてもらえず政界を去ることになった、あの橋下徹氏です。橋下氏は、かつて『飛田料理組合』の顧問弁護士を務めていたのです。組合の応接室には、彼を一躍有名にした人気テレビ番組『行列のできる法律相談所』に出演していた当時の茶髪姿の写真が、飾られているそうです。

五反田は、初心者からマニアまで、芸能人も訪れる風俗街

五反田は、交通の要衝であり、ビジネス街、金融街

五反田は、東京都品川区の北部の地域名ですが、町名としての五反田は、存在せず、西五反田、東五反田という地名があるだけです。同地域の中心となる五反田駅は、JR山手線、埼京線、湘南新宿ライン、東急池上線、都営地下鉄浅草線が乗り入れています。また、桜田通りや山手通り、目黒通り、中原街道、首都高速2号目黒線などの車道が充実しているなど、交通の要衝となっています。

五反田には、かつてソニーの本社(現在は、御殿山テクノロジーセンター)がありましたが、現在もポーラ、学研ホールディングス、イマジカなどの大企業が本社を構え、多くの事業所が密集するオフィス街となっています。また、全都市銀行の支店やシティバンク、城南信用金庫があるなど金融街でもあります。

再開発が進み、街並みの変貌が著しい五反田

2008年には、東急電鉄とJR東日本が、五反田駅に直結した複合商業施設「レミィ五反田」「アトレヴィ五反田」を開業しています。また、JR五反田駅の南東300mに位置する東五反田2丁目付近は、都市再開発地区に指定され、東五反田レジデンス、東五反田スクエア、パークタワーグランドスカイと、中層、高層、超高層住宅棟が整備されています。このほか低層オフィスが計画、建設されるなど、街並みが大きく変化しています。

芸能人が足繁く通う風俗街“五反田”

そんな変貌著しい五反田のもうひとつの顔が、風俗街という一面です。古くは、大正時代の花街から始まり、近年では、SM・M性感、イメクラ、デリヘル、ホテヘルの街として知られています。JR五反田駅の東口、西口には、ラブホテル街があり、デリヘル、ホテヘルの利用にはもってこいと言えるでしょう。

五反田は、交通の便が非常よく、オフィス街であるため夜間人口が少ない、そして街灯が、渋谷や歌舞伎町のように明るくないため、芸能人やスポーツ選手などが、お忍びで遊びに来るには都合がいいようです。真意はともかく、よく知られた芸能人の方が、五反田に遊びに来ているようです。例えば、お笑い芸人のケンコバこと、ケンドーコバヤシさんは、テレビ番組で五反田に実在する風俗店の名前を連呼し、お店側から感謝され、“ケンコバ祭り”という割引サービスを行うまでに。また、ダウンタウンの松本人志さんは、かねてより五反田の風俗ファンだったらしく、相方の浜田雅功さんが、松本さんの結婚、パパになることを受けて、「もう五反田には行けませんね」と、祝福していたそうです。

五反田風俗の特徴は、初心者からマニアックまで受け入れる多様性

芸能人をも魅了する五反田風俗の特徴として、主に女性が男性を責めるプレイをコンセプトにしているお店が多いことが挙げられます。それは、SMやM性感の風俗店に限ったことではなく、お姉さま系や高身長なモデル系の女性が、男性を言葉責めしたり、脚で責めるという、フェチ系だったり、痴女プレイが楽しめるお店の割合が大きいということです。また、素人系・美少女系のイメクラ店や複数プレイが楽しめるお店、人妻店があったりなど、他のエリアよりもコンセプトの多様性が圧倒的で、初心者からマニアックな上級者をも受容できる懐の深さが、人気の秘密なのかもしれません。

逆に言うと、五反田風俗の仕事は、選択肢の幅が広く、自分にあったお店を探しやすいと言えるでしょう。お店選びに困ったら、一度、五反田を訪れてみてはいかがでしょうか。

NK流で名を馳せた風俗街“西川口”は、B級グルメで街再生

埼玉県の西川口と言えば、かつて全国的に知られる風俗街でした。元々、西川口には、川口オートレース場、戸田競艇場があり、集客力がある土地柄と言えましたが、風俗街としての規模は、決して大きなものではありませんでした。

赤羽ピンサロ店が、西川口に流入し、NK流

しかし、2000年前後に赤羽のピンサロ店が大規模摘発に遭い、西川口に移転するかたちで流入すると、町の様相は一変しました。その理由は、“本サロ店”、つまり本番ができるピンサロ店だったからです。西川口の名をとって、NK流(Nishi Kawaguchi 流)と呼ばれるサービスは、ソープランドよりも格段に安いサービス料で本番ができるとあって、その知名度は、瞬く間に全国規模となりました。全盛期の西川口には、ピンサロ店が200軒とも300軒とも言われ、ソープランド街の吉原に肩を並べるくらいだったそうです。

風俗環境浄化でサヨナラ、本サロ店

風俗街、歓楽街としての規模が大きくなる一方で、治安の悪化を招くことになったのです。そして、ついには、拳銃による殺傷事件や大麻の売買など、犯罪組織の活動が深刻化してききました。事態を重く見た地元住民が、埼玉県警に働きかけ、2004年11月に西川口駅周辺を「風俗環境浄化重点推進地区」に指定しました。これには、新宿歌舞伎町で始まった「歌舞伎町浄化作戦」の影響が少なからずあるのかもしれません。西川口の本サロ店は、軒並み摘発され、壊滅状態になりました。それでも一部残った風俗店は、隠れるようにして営業していましたが、2006年5月に大幅改正された風営法が施行されるのを機に、同年秋には大半が閉店に追い込まれました。

一掃された風俗街の跡地にB級グルメタウン

こうして西川口から、西川口一丁目10番の区画を除き、風俗街が消滅しました。しかし、ここでひとつの弊害が生まれました。それは、風俗店を一掃したために、西川口駅周辺のビルは空き物件だらけとなり、また、風俗店の客や関係者を対象としていた飲食店も閉店に追い込まれ、空き店舗となってしまったことです。

風俗街の一掃と治安の回復と引き換えに、西川口は町としての活況を失ってしまいました。しかし、近年、西川口では、街再生として、空き店舗となり、閉ざされたままのシャッターを花の絵で彩る“アート作戦”を行ったり、“B級グルメタウン”として新たな活路を見出しています。特に2008年から始まった『川口B級グルメ大会』は、マスメディアに多数取り上げられ、年々その規模を大きくしています。また、空き店舗に新規飲食店の出店誘致を行うなど、新たな町づくりを目指しています。

歌舞伎町浄化作戦ってご存知でしょうか?

風俗の活気が消えた街

舞伎町から風俗が消える?

新宿歌舞伎町のコマ劇場のあたりが再開発されて、街の雰囲気がガラリと変わります。
これは東京五輪に向けての準備だそうで、新宿自体が大規模再開発されるみたいですね。

歌舞伎町浄化作戦」ってそもそも石原慎太郎都知事時代に開始されたそうです。
目的としては、違法風俗店の摘発や暴力団対策なんだそうです。

より治安も良くなると一見思いますが、そう簡単な話ではないようです。

風俗店で働く女性の働き口がまず無くなります。それによって風俗店周りのお店の客数まで減ってきます。
例えば、近場の飲食店や美容室など、客数が減ってしまいお店を閉店したり移転してしまう事例も出てきます。

やはり新宿歌舞伎町周辺は賃料も高いので、客数が減ったらそこでビジネスを継続するのは難しいでしょう。

そして客数が減り、お店も減り、街から活気も減ってしまい、見た目だけキレイな街が残るんでしょうね。

風俗関係者達は何処に行くんでしょうか?

以前、神奈川県の横浜市、黄金町で「バイバイ作戦」なるものがありました。
これは黄金町の置屋街が警察に一斉摘発され全店舗が閉鎖に追い込まれました。
それによって当然売春行為は激減しました。

風俗がその街から一気になくなると、当然周りの飲食店なども無くなって、街の雰囲気も変わってしまいます。

黄金町もアートの街として生まれ変わった筈ですが、なんだか静かな街になってしまったと思います。
アートではなかなか儲からないし、人が沢山訪れるイメージが湧きません。

私も昔学校が関内の近くだったため、色々歩いて回ったのですが、やはり活気が無いと感じました。

黄金町には未だに風俗店は残っています

その風俗店が並ぶ一角は、ちょっと危険な香りもして出来るだけ通りたくない感じがします。

そして風俗店が残っている一角を過ぎると、川沿いに寂れたラブホテルなどが建っています。このホテルも川沿いで人通りも少なく夜には歩きたくない雰囲気がします。

黄金町の駅前は人通りが多いのですが、目の前の国道沿いに歩き、横浜中央図書館に向かい歩いて2~3分の所に、今度はストリップ劇場が1件あります。
毎回図書館に行く時に思うのですが、こんな所に建っていて大丈夫なのか?不思議に思います。

ここも寂れた感じがするのですが、お店が潰れていないのでお客は入っているんでしょうね(汗)。
木造のストリップ劇場なので、時代と文化すら感じますが何だか駅の近くにポツンと風俗店があり、バイバイ作戦の名残りなんでしょうかね。

こんな感じで歌舞伎町もおかしな事にならなければ良いんですが。
少なくとも2020年の東京オリンピック時までには、確実に歌舞伎町の風景も変わるので、街の変化を見守ろうと思います。